境界線は何処に。

 連日のニュースにある通り、日本の西側にある国では凄惨な暴力が繰り広げられています。人が、街が無惨に踏みにじられているのを思うと、表す言葉が見つかりません。暴力が暴力を生み、その報復心が権力への求心力になっていく。史実として知ることと、いま現在起きていることとでは全く重みが違う。今日にも明日にも誰かが殺し、殺されていく。眺めるばかりで何も出来ない、何もしない自分が腹立たしくて悔しいばかりです。終わらせる方法は一つしかない。引き金から指を外せば、すぐにでも終わること。互いに命を尊重し、知恵を出し合って譲り合えば、解決しない問題は何もないはず。

 

 

 日本は先の大戦以来80年近く、戦禍を免れてきた幸運な国です。それはただ運が良かったのではなく、鈴木安蔵氏をはじめ民間の知識人たちによって築かれた日本国憲法を今日まで守り続けてきたことにあると私は確信します。戦争をはじめ暴力は他者への不信や恐れから始まります。恐れに打ち勝つために武器を置き、対話による歩み寄りを広く宣言したこの国に生まれたことを誇りに思いますし、そんな土壌に相応しい生き方を私はしていきたい。

 

 

 それ故に、昨今に溢れ返る言論について、とても心配しています。西の国の惨状を見て「いつか自分たちも」と心配する人たちが現れるのもある意味、本能的には正しいと思います。その本能から「憲法9条を捨てろ」「核武装を」と切り出された時、今一度立ち止まって欲しいと思いました。

 

 

 マイケル・ムーア監督の『華氏9.11』というドキュメンタリー映画で同時多発テロ以降のアメリカによる対テロ戦争の実態を観ましたが西の国の惨状を見て、その内容を思い出しました。どちらの戦争も権力者は同じ手口で攻撃を正当化していました。恐怖を煽り、外部のメディアを締め出し、正義のため、解放のためと虐殺を正当化しました。こうした不正に抗うために、真実と向き合わなければいけない。恐怖による支配を逃れ、お互いの尊重を元に対話の土壌を踏み固めていければ、こんな戦争は二度も起こらなかったはず。「そんなのはロマンだ」という人もいるかも知れない、じっさいロマンだ。けれど、そんなロマンがなければ私たちはいつまでも、恐怖による支配から逃れることは出来ない。言葉とはそういうものだ。その言葉で私たちは喜怒哀楽して、引き裂き合って、繋がり合ってきたのではないのでしょうか。私たちはいつでも、言葉に身を委ねている。

 

 

 そう言いながらも久しく、作品を描く手が止まってしまいました。私のような無名人の作品など誰の目にも留まらないかもしれない。それでも今、残さなければならないものがある限り、私は私の作品を諦めたくありません。

 

 

 いま組曲『繭の墓』という作品集を作っていて現在は第四章"-MEPHISTO / 獣葬-"という作品を描いている途中です。作品のテーマは「悪」。旧約聖書の「汝神の如くなりて善悪を知るに至らん」という言葉をキーワードに掲げています。これはアダムとイブの楽園追放の切っ掛けを作った蛇の言葉で、この果実を口にすれば神のように偉大になれるという誘惑があります。率直に、今までにはない難作の予感がしました。「悪」というテーマをどう位置付けるか、そこが第一の関門でした。勧善懲悪みたいなこの世に蔓延るヒロイックな作品にするわけでもなければ、どこまでも堕ちろという偽悪でもない。傲慢・強欲・羨望・破壊・無関心、無感動・・・自分自身の無意識に巣食う悪を見出し、描かなければと思いました。

 

 

 新約聖書には「義人なし、一人だになし」という言葉があります。善がある、正義を貫き通したい。そう願って生きることはごく当たり前だと思いますが、それは同時に自身の悪を、下心をひた隠しにする後ろめたさと表裏一体だと日毎に思い知らされました。いったいどれだけの時間を無気力に打ち捨て、惰眠を貪ってきたか。笑わせる。けれど、悪は人間の本質ではない。今まさに一つの土地を蹂躙する権力でさえ「解放のため」「人道のため」と口々に言っている。私たちの本質は悪ではない。真実と偽り、善と悪の狭間に揺れる天秤、それが私たち人間。

 

 

 真実とは寛容と忍耐、偽りとは否定と破壊。もう空々しい、一々言わせないでくれと書きながらに思ってしまいました。そんな空々しい、一々言わなくて良い事さえ、私たちは満足に行う事は難しいかも知れない。けれど難しくても、出来なくても、何度も約束を破ったとしても、何度でも何度でもやり直せばいい。百回のうち一回約束を守れたなら、今度は二回、そして今度は三回と守れたら、それでいいと思います。私は遠回りな方法しか考えることが出来ませんけれど、それが戦争を止める方法の一つだと信じています。悪を認め、それでも善を行うこと、宗教や信仰、信条は絵空事ではなく、必ず現実の行動に繋がっていきます。ナザレのイエスは宗教ではない、友情は口約束ではない。私の作品もそうなるよう、この一作に美醜を投じていきたいと思います。

 

 

 言葉とは何だろう。この文章を書きながら、絵や散文を書きながら度々考えさせられます。形のない言葉、無力の権化たる言葉。それに私たちはいつだって振り回されている。爆弾や銃弾のように街を真っ黒こげにしていったのも、元を辿れば言葉だったのではないか。時々そう思います。国籍や信条の差別、正義の名のもとに繰り広げられる誹謗中傷の応酬、高台から他者を俯瞰し従わせようとする言葉。往々にして言葉も権力的で、個々人がそれに憧れ、競い合っている。国境を越えて飛び交う銃弾、ならば言葉に越えられないものはあるのだろうか。境界線は何処にある。

 

 

 これ以上は辞めにします、浅学な私には収拾のつかない事ですから。ただ、心の銃の引き金から指を外して生きていけたら、そんな平和な人間に私はなりたい。心は見えない、心に代るものは言葉だとは言い切れないけれど、言葉を検めながら生きていきたい。きれいな言葉の中で、生きていたい。それが平和というものに、繋がっていくなら。