ただ、一人の人間として。

 安倍晋三元首相が銃撃され、そのまま亡くなったというニュースが昨日から引っ切り無しに流れ、あまりにも衝撃的でした。ご婦人は今、どんな想いで過ごしているのか。彼の家族は、親戚は、友人たちは、支持者やそうでもない人たちは一体。思うだけでただただ、胸が痛むばかりです。ただここに、哀悼の意を表したいと思います。

 私個人としては、安倍元首相の政権運営とその成果には殆ど賛同していません。度重なる増税で多くの人々が貧困して、社会保障は削られ、沢山の人々が自殺に追い込まれ、教育は歪められ、歴史観さえ歪められてきました。税金を私物化し、その悪事を隠すために一人の人間が自殺に追い込まれたこと、それを頑なに隠蔽し続けたこと、真っ向からの議論を避け、煙を巻いて逃げ続けたこと、原発からの汚染水は「アンダーコントロール」と偽り、「復興五輪」の名の下に被災地を踏みつけて来たこと、日本が戦争の加害者になれるよう都合よく憲法を捻じ曲げたこと、ヘイトを煽り国内外で分断を招いたこと、国民を「こんな人」呼ばわりしたこと、全て許されることではありません。盗んだものがあるなら全て返せ、ついた嘘の数だけ本当のことを言え、あなたの政治や行いで犠牲になった人々に心から謝れと、ただ言いたかった。

 

 

 けれどそれが、彼を死に追いやって良い理由にはならない、しちゃいけない。安倍さんにも愛すべき奥さんがいて、友達がいて、ライバルだっていたことでしょう。色んな立場や考えの違いを超えて、彼の死を悲しみ、涙する人たちがいたのが何よりの証拠です。善人悪人以前に安倍さんも一人の人間として幸せになる権利がある。その幸せを、命を奪う権利なんて、誰にもありません。私は政治家としての彼を激しくと言って良いほど嫌悪していたと思います。けれど、彼が理不尽な凶弾によってその命が絶たれた瞬間、怒りの感情は全く吹き飛んで、悲しみだけが残りました。私も彼も同じ人間、身を撃ち抜かれる痛みは想像を絶するものだったでしょう。ニュースを見たその晩は苦しくて眠れなかった。つらかったでしょう、痛かったでしょう、残された人たちのことを思うと、悔やむに悔やみきれないでしょう。そう思っただけで一人の人間として、安倍晋三さんとは心から和解したい。彼も一人の人間だったと、恥ずかしながら今更のように思い出されました。

 

 

 もちろんそれが、安倍政権による数々の禍根を無罪放免にする理由にはなりません。不正の数々は必ず明かさなければいけませんし、奪ったものは返さなければいけません。分断を引き起こす仕組みや発言の数々を今一度質さなければいけません。それが政治であって、話し合いであって、平和的な解決だと私は信じています。そういった長く慎重な吟味を経ずに彼を神格化したり、悪者にしたりするのは間違っていると思います。

 

 

 犯人の動機についてはまだまだ不明な点が多く、これから明かされるであろう真相を追っていきたいと思います。何が原因でこのような悲劇が起きてしまったのか、どうすれば再発を防げるだろうか、そこが大事だと思います。それが思想への攻撃であろうが、個人的な復讐であろうが、政治的な義憤に駆られたものであろうが、人が人を殺めることは断じて許されません。

 

 

 今年の参院選は本当に異例なものになりました。だからこそ、一時の情に流されず、よく考えて投票すべきだと思います。とりわけ憲法改正の是非について。日本国憲法の生い立ちについては以前書いた記事があるので割愛しますが、日本国憲法それ自体が大きな外交的効果を持っていることを忘れてはいけません。日本は外交としての武力を放棄したことで海外でのNPO活動において多大な信頼を得てきました。それだけではありません。基本的人権、表現の自由、投票権、教育を受ける権利、多くの国々が喉から手が出る程欲している全ての権利が保障されていることが、日本が世界に誇る法治国家たる所以だと私は考えています。もしもこれらが時の政権の一存で都合よく変えられたり、失ってしまうとどうなるでしょうか。想像するだけでも恐ろしいことです。特に憲法9条について、私は他国へ行って人を殺したくありませんし、戦争によって殺されたくもありません。私の友達や家族も、日本に住む誰かも、名前も知らない国の誰かも、そうなって欲しくありません。

 

 

 今回の事件を受けて、貧困によって、政治によって、偽りによって、怨念によって、どんな理由があろうと人が人を殺す世の中はもうヤメにして欲しいと願っています。「歴史は繰り返す」だとか「これからもこういうことは増えるだろう」だとか「民主主義は終わった」だとか、達観している暇なんてない。暴力に対して暴力で応えたくない。信条が違えど私はこの一票で、安倍さんを殺めた暴力を金輪際否定したい思いでした。暴力に応えず一票を投じることが、安倍さんへの供養になることを願っています。そして私はどうすれば暴力を無くせるか、ずっと考えていました。

 

 

 暴力とは悪です、そして悪とは「欠乏」を意味します。何かが足りない、その足りない何かを誤った方法で手に入れようとするのが悪なのです。生きるのに必要な食べ物や衣類がないから盗む、相手を許す心がないから妬んだり、誹ったり、殺したりする。本当のことを知らないから偽りに支配される。何よりも人間の欲は底知れない、ずっと何かが足りないから、相手を騙してでも欲しがる人も現れるでしょう。憎しみのない戦争、貪欲のない戦争がないのと同じです。その悪を完全に排除することは不可能かも知れません。けれど政治によって、人々に足りないものを充足することが出来るはずです。何より政治は政党や一部の有力者のためのものではない、私たちの生活を守るためにあるものです。私たちの生活を満たすことで、悪の根源たる欠乏を除けば、あのような悲惨な事件も減らすことが出来ると信じています。巡り巡って福祉こそが最大の国防、安全保障に繋がっていくはず。人々の暮らしが豊かになって、お互いの顔を見て笑い合い、認め合い、分け合える世の中になって欲しい。そしてこの世の暴力を少しでも無くしていけたら、どんなに良いことでしょうか。

 

 

 今だけは右も左も、与党も野党も関係なく、一切の暴力を否定するために人々が一票を投じることを願っています。どうしても人間は互いの違いについて当惑し、否定したくなる所があるかも知れませんけれど、沢山の違いの中でたった一つでも、同じものを見つけられたら、他の違いだって少しずつ許せるようになっていく。そんな世の中になって欲しい。一つの目的の中で方法が沢山あってもいい、幾らでも議論して、それぞれの方法を高めていければ、それが多様性の社会の実現に繋がるはず。失われた命はどう足掻いても戻ってこない。だからこそ、この悲劇を繰り返さない世の中にしていくことが、今日を生きられなかった人たちと、これからを生きる私たち、そして未来の子たちの希望に繋がっていくのではないでしょうか。かけがえのない、ただ、一人の人間として。