素朴な信仰。

 安倍晋三元首相の銃撃事件から二週間近くが立ち、これを皮切りに信じられないようなニュースが連日流れています。犯人は旧統一教会によって家庭崩壊に追い込まれたこと、同教会による被害が世代を超えて根深く残っていること、そして政権与党が50年近く同教会とただならぬ関係を持っているという記事が次々に発掘されていること、国としてのアイデンティティが根底から覆される大事件だと、言わざるを得ません。フィクションのような出来事が現実に起きている、俄かに信じ難く動揺しています。

 その一方で政治や宗教のタブーが解き放たれ、それまで明かせなかった自身の生い立ちを話す人、それに関心を持つ人が増えたことにはとても希望を感じさせられます。逆に言えば、それらが今まで闇に覆われていたことであのような事件が起こったわけですから、この機運はこれからも絶対に絶やしていけないと思います。

 

 

 そして今日カルト宗教が話題になっていますが、今回は私個人の信仰についてお話したいと思います。私は幼稚園がプロテスタント、大学がカトリックという生い立ちのため無意識的にも意識的にもキリスト教が私のルーツといえます。そして私の父方の家は曹洞宗、母方は真宗大谷派と、伝統ある宗教に囲まれた家庭に生まれたことがこれほど幸せな事だったのかとつくづく身に沁みます。お寺も神社も教会も大好きで、十字架や数珠を持ってお祈りをしたり、聖書やお経を読んだりすると温かな気持ちにさせられます。小さい頃、飛べない子スズメを拾ってたった二晩の命を見届けた時、悲しさのあまり母親に「死んだら天国に行けるの?」と必死に尋ねたのを覚えています。天国があって欲しいと、必死に願っていました。そこにいるのはイエス様か仏様か、その時は考えもしませんでした。けれど、どちらであってもそれは喜ばしいことだと今でも思います。

 

 

 そんな仏様やイエス様、アッラー様の名を借りて私腹を肥やし権力を握ろうとするカルト宗教を、私は心の底から非難したいです。日本だけでなく世界のありとあらゆるところでカルト宗教が生まれ、規模の違いはあれど神の名の下で絶大な権力を握っています。日本でそれが国家的に行われた例は今回だけではありません。藤原氏や歴代の幕府、大日本帝国もそうでした。坂口安吾は『続堕落論』の中で「彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか」と大日本帝国とそれによる戦争を厳しく批判しました。それが偶像崇拝というものだ。天皇だけではない、ヒトラーも毛沢東も、ゲバラも忌野清志郎も、それぞれ行いや思想は異なるものの、ある人々のイコンとして今日も崇められている。それがそもそもの間違いだ。今回もまた、国葬の是非があちこちで囁かれていますが私は断固として反対します。死者に権力を持たせてはいけない。長崎で被爆し、病床の中で生涯平和を訴え続けた医師、そして敬虔なキリスト教徒の永井隆は『へりくだり』の中で「どんな人でも死に際だけは美しくしたいと願う、それは自然の人情だ。けれども特別、人の口に後々まで好い評判となって残されようと思うのが虚栄になるんだ。虚栄は人の心を濁す。濁った心では神に会えない。」と綴りました。私は学生時代、一瞬でしたがある政治的な学生運動の活動に参加したことがありましたが、左右がどうのとか関係なく、偶像を掲げる活動は一切の例外を認めない、非常に偏屈なものばかりでした。虚栄とはこういうものか、と今更のように納得させられました。

 

 

 仏教や他の伝統宗教には手薄ですが、少なくともキリスト教系カルトについては聖書のどの部分が都合よく切り取られ、全体化され曲解されているのか大よそ見当がつきます。聖書をもってカルトを問い質してやりたい気持ちも沸いてきましたが、それでは相手の思う壺。カルトが利用するのと同じ、システマティックな方法に頼らざるを得ないからです。結局そういうシステマティックな論争が敵愾心を生み、憎しみを生むのだと、改めて自戒したいと思います。「机上の空論ではなく現実に仕えること、その現実の判断基準となるのが宗教、宗教とは『いのちの教え』と書きます。」あるお寺の住職の方が仰り、その上でどの伝統宗教も切り口は違えど同じ道で交わると、話して下さりました。たったその一言で私はどれだけ救われたことでしょうか。

 

 

 私は今、こうした素朴な、もっと言えば雑食的な信仰を胸に会社員として働き、休日には緑地を歩いたり読書に耽ったり、時にはお世話になった幼稚園に足を運んで牧師様とクリスチャンの方々と一緒に聖書を勉強したりという生活をしています。

 

 

 そんなある日、古くから付き合いのある人が久し振りに私の前に現れ、絶望的な表情を湛えていました。詳しいことは伏せますが、突然の不運で稼ぎが無くなって借家を追い出されるかもしれないという危機的な状況でした。公的な手段も当てに出来ず、迷惑を掛けるなら死んだ方が良いと力なく話していました。けれど、たった一ヶ月分の生活費があれば立て直しの可能性になるとも言っていました。必要な金額と用途を詳しく尋ねると、それは決して小さな金額ではありませんでした。そこで意を決して私は、全額工面しました。この決断に至るまでとても悩みましたが、それは自己利益に基づく一時的で下らないものだと今は思います。たったそれだけの金額で一人の命が助かるなら、安いものじゃないか、と。

 

 

 私は人助けをしたかったわけではありません。その人のそれまでの生活について耳を傾ける程、その生活を一緒に取り戻したいと思ったからです。お客さんの言葉に支えられてきたこと、仕事人としてのプライドを持って働いていたこと、それが何より天職だと自負していたこと。運の悪さ一つでそれを失うのは余りにも理不尽だ、抗えるなら抗ってやりたい、そんな思いでした。しかしそれだけではありません。私は大学で二年間留年し、時間的にも金銭的にも家族には大いに世話を掛けた身の上でした。その上で全く借金もないまま、私はのうのうと生きている。それでいいのだろうか。

 

 

 マタイによる福音書第25章14~30節には『「タラントン」のたとえ』という、天の主を説明するためにイエスが語った例え話があります。「タラントン」とはお金の単位で「才能」を意味する英単語(talent)の語源になっています。ある人が旅に出る時、自身のしもべ達にそれぞれの能力に応じて一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出たというお話です。5タラントンを預かった人、2タラントンを預かった人はそれぞれ商売によって預かったお金を倍に増やしました。しかし1タラントンを預かった人はそれを失うのが怖くて、土の中に埋めてしまいました。後日主人が帰って来て、しもべ達の清算を行うと5タラントン、2タラントンを預かった人たちは「良いしもべだ」と褒められましたが、1タラントンを埋めた人は「怠け者の悪いしもべだ」と叱られてしまいました。その人は自身の取り分の少なさに不平を言いましたが、それに対して主人は「それならば銀行に預けて利子を付けて返してもらえただろう」と反論し、タラントンを取り上げ、10タラントンを持っている方へ与えるよう命じました。

 

 

 ここで私が言いたいのは、誰でも大なり小なり、神様から借金をしているのではないかということです。生まれた時から裕福な人もいれば貧しい人もいる、身体が丈夫な人もいれば弱い人もいるし、器用な人や不器用な人、勉強が出来る人そうではない人もいる。けれどもどのような生まれであっても、そこには一つのお恵みがあると思います。持たざるゆえに足るを知る人もいれば、苦しみを知るからこそ優しくなれる人もいる、富や知識を持っているからこそ分け与えられる人もいるでしょう。知らないからこそ知りたい謙虚な人だっている。それぞれの立場で良い種を蒔くことが出来る、それがタラントンの意味だと私は思います。

 

 

 私は親からもですが、神様からも多大な借金をしているから、返さなければいけない。ただそれだけのことでした。もしもそれを返さず、大切な人を失うようなことがあったら、なけなしのお金は一生涯私を呪っていたでしょう。ヤコブの手紙第5章には「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう」とありますが、まさにその通りだと思いました。持っているものを人のため、世の中のために使わなかったら最後、その借金と共に朽ち果てていく。私はそんな惨めな人生を送りたくはありません。

 

 

 それでも人間は傲慢で嘘つきでケチな生き物ですから、神様に文句ばかり言って何もしない自分を正当化してしまうこともあるでしょう。三浦綾子の不朽の名作『塩狩峠』である伝道師が主人公に対して「あなたがイエスを十字架にはり付けた」と断言し、主人公は当初その意味が全く分かりませんでした。私も同様で、それどころかこの作品を読み終えた後も全く分かりませんでした。けれど、隣人の危機を前にお金の工面を決断した時、それまでの私の生い立ち、私の怠惰を眼前に突き付けられました。イエスは私たちの借金を肩代わりして、十字架につけられ、そして私たちを赦した。その意味が今は分かる。どんなに言葉を重ねても、説明の出来ないことです。それを期に私は街の教会へ行って、一冊の本とロザリオを買いました。因みにポーチは聖母マリアの衣と同じ青色を選びました。私の怠惰がイエスをはり付けたことを、その十字架の上で私を赦してくれたことを、忘れないために。

 

 

 これが私の、素朴な信仰です。ここまで話しておいてアレですが、私は一度も洗礼を受けていません。(笑)これはある意味「隠れキリシタン」でしょうか、ハハハ。ただ私が言いたいのは、信仰に条件はないということです。キリスト教徒にはキリスト教徒の、仏教徒には仏教徒の、ムスリムにはムスリムの、無宗教者には無宗教者の信仰があって良いと思います。教会に名簿がなければ、献金がなければ、数珠やロザリオがなければ成り立たない信仰はもはや信仰ではない、拝金主義者が促す偶像崇拝と一緒にしてはいけない。このロザリオだってその教会で一番高いものでも1500円、安いもので800円と、子どもが少しおねだりをすれば買ってもらえるような金額です。勿論この金額と信仰の間には、何の関係もありません。宗教は論理ではない、宗教は生活に生きる良心そのものだと、私は思います。

 

 

 最後に、マザーテレサの言葉を引用してこの日録を終えたいと思います。

「大切なことはどれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。」